| 物語にはオチが必要か? |
よく、結末がわからない終わり方の作品を「わからないからつまらない」と批判する人がいるが、俺はむしろ、読み手や観客の想像の余地を残している作品だと思うので、大好きだ(モヤモヤが解消するカタルシスを求めてもいないし、予定調和のハッピーエンドも望んでいない。作品によっては、理解する為に知識や人生の経験値を必要とするものもあるし)。 逆にオチがハッキリしていると萎える事の方が多い。 これは俺が怪談好きだからかも知れない。
怪談には二通りある。怖い怪談と怖くない怪談だ。 怖くない怪談とは、ズバリ、オチがある怪談である。 「…で、翌朝その場所に行ってみると、そこには慰霊碑が立ってたんだって」 とかいうヤツである。怪異の原因が特定できてしまうので、理不尽さが無くなる。 ほとんどの怪談本が、理由を説明していて詰まらない。本当に怖がりたければ、平山夢明らの『超怖い話』関連の本が理不尽な話ばかりなのでお薦め。
真の恐怖は、原因不明である。理不尽な怪異は怖い。何故なら、誰もが犠牲者たり得るからである。 何故、その怪異が犠牲者の身に降りかかったのか?それがわからない方が怖い。
鈴木光司『リング』が神作品で、『らせん』、『ループ』が駄作なのには理由がある。 『リング』では、ビデオを観た人が死ぬ原因は、貞子の呪いなのではないか?という視点で物語が進行する。ダビングしたビデオが出回り、大量に人が死ぬ暗示で終わる。 しかも、巧みな事に、「貞子の呪いのビデオ」という原因を突き止めたはずなのに、主人公の浅川しか生き残らない。 これは怖くて良かった。
しかし、『らせん』で一転。ビデオを観た人が死ぬ原因が「リングウィルス」によるものである、と答えを提示してしまう。 似非科学(化学)モノのホラーは駄作だ。怖くない。 それが許されるのは、ゾンビやバイオハザード系のスプラッターだけである。
『リング』は、不幸の手紙に代表されるチェーンレターと都市伝説の要素が物語を構成しているが、実は非常に古典的な怪異譚である。 非業の死を遂げた女の怨念が、怪異を引き起こしているからである。
日本の古典怪談は人情モノである。 『四谷怪談』も『真景累ヶ淵』も、人情モノの落語である(『真景累ヶ淵』のオチはタイトルにある。真景と神経をかけたギャグになっている)。悪人に殺された怨念を、霊魂が晴らす話だ。 原因があり、結果がある。いわば自業自得である。むしろ、恨みを晴らす爽快感すら覚える。
『遠野物語』で知られる民俗学者の柳田國男は妖怪と幽霊の違いを「妖怪は決まった場所に現れ、幽霊は恨みを残した相手の前に現れる」としたが(俺はこれには異論がある。地縛霊という存在が説明できない)、なるほど、日本の古典怪談は人情モノだったから、こうした分類になったのだろう。
柳田國男による分類で妖怪の説明にあるような、場所に現れるモノ。これは、その場にたまたま行ってしまった人物の身に、怪異が降りかかる。 つまり、無差別なのである。 この無差別に降りかかる理不尽な恐怖に、更に原因不明という要素が加わると、本当に怖い。だから、面白い。 何故そうなったんだろう?と想像する楽しみがある。
俺がオチの無い話が面白いと感じるのは、「何故そうなったんだろう?」と想像する余地があるから。 作者の意図を読み取る楽しみ(深読みし過ぎて見当違いの方向に暴走するのも楽しい)もあるし、その後を想像して楽しめる。 しかし、オチがある物語は完結しているので、想像の余地がない。そこで満足出来るクオリティの話ならいいが、オチがある事でつまらなくなる話もある。 「この後どうなっちゃうんだろう?」と続きを予感させるような、余韻を含んだラストの方が断然、楽しいと感じる。
また、その場で全てが語られているものよりも、謎がさも当たり前のように残っている作品の方が、後々「あっ、もしやあれはそういう事だったのではないか?」とひらめいた時に、より深く作品世界にのめり込めるし、時間の経過により印象が異なる作品の方が楽しい。 好きな人の全てを知るよりも、意外な一面が残っている方が楽しい。
所詮、一個人が一生のうちに理解出来る事柄なんて、この世の中のたかが氷山の一角に過ぎない。全てを知りたいなんておこがましい事だし、知らない事があるからこそ、生きてて楽しいとも言える。
そんな訳で、俺はオチの無い話が好きだ(落語も大好きなんだけどね)。
※もちろん、モノによってはオチが無いと締まらないものもある。そういう作品の場合は当然、オチを期待するし、大したオチじゃないと腹を立てる。 我ながら我が儘だなぁw
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| 【怪談】声 |
今さっきからずーっと、外から 「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」 という暗い声が幽かに聴こえている。 物悲しいような、不気味なトーンで、 「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」 と繰り返し繰り返し、何度も声がする。
誰かが発声練習をするような時間じゃないし、聴こえ方がおかしい。 普通、この辺りで外の声が聴こえるとしたら、エコーがかったような聴こえ方をする。 しかし、この声は震えてはいるものの、響いている感じでは無いのだ。
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
今もまだ、声は続いている。
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| 【怪談】銀兵衛先生の怪談。 |
中学の国語の先生に銀兵衛さんという先生がいた。 銀兵衛というのは自ら名乗っているアダ名で、本名は全く違った。 本人曰く、「横浜銀蠅」から取ってつけたそうである。 とても型破りな先生で、退職される日、体育館のステージに上がり、生徒が静まるまでずっと微笑んで立っていて、静かになったら一言、 「じゃあな」 とマイクで言って、体育館の真ん中をスタスタと歩き、途中で女子生徒の一人に愛用の猫のバッヂを渡して去って行った。 とてもカッコいい先生であった。
銀兵衛さんは授業中にたまに怖い話を聞かせてくれた。 その話術は巧みで、マジで怖かった。
あれからもう17年以上の時が経っているというのもあり、細部は忘れてしまっているが、先生が話してくれた怖い話をひとつ、載せてみたいと思う。
銀兵衛さんはその日も大好きな酒を召し上がっていた。 いい心持ちで家路につく。 通い馴れた道、乗り馴れた電車。いつもと同じだった。
銀兵衛さんがふと吊り革に目をやったのは偶然だっただろう。 酔った目でぼんやりと吊り革を眺めていると不思議な事に気付いた。 他の吊り革は電車の揺れに合わせて僅かながらに揺れている。 しかし、三つだけ微動だにしない吊り革があるのだ。
…何だろう?と思ったが、すぐに気にせず視線を外した。目の前の窓を踏切りが横切っていく。
御自宅の最寄りの駅で下りた。 毎日歩いている道を歩く。
…あれ?
なかなか家に辿り着かない。
気付けば同じ場所に戻っていた。
…そんな馬鹿な。
銀兵衛さんは再び歩き始めた。
また、見慣れた場所に戻って来る。
おかしい。
家に向かう。
元の場所。
堂々巡りである。
ふと、先ほどみた三つの吊り革と、踏切りが頭を過ぎった。
…まさかな。
何度目のトライだったか。 銀兵衛さんは家に帰る事が出来た。 疲れていたのですぐに眠りに落ちた。
翌朝。 銀兵衛さんは一階の居間でお茶を煎れ、調べたい資料を取りに二階の書斎に向かった。 僅かな時間だった。 お目当ての本を取って戻って来ると、コタツの上の茶碗が真っ二つに割れており、湯気の立つ茶が天板の上に広がっていた。
銀兵衛さんは猫と暮らしているが、猫は茶碗を真っ二つには出来ないだろう。
何なんだ、一体…。 銀兵衛さんは不思議だと思いながらも、『まぁ、そういう事なんだろう』と納得した。怪異には馴れている。
ふと、新聞の記事に目が吸い付けられた。
そこにはあの踏切りで母子三人が死亡した事故について書かれていた。
「…この話な、聞いた人のところに順番に母子三人の亡霊がやってくるんだ。今夜は誰のところに来るのかな?」
そう言って銀兵衛さんは笑った。
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| 【怪談】怪談の魅力と役割 |
何故、我々はこの科学万能と謳われる現代社会に生きながら、不条理な出来事に興味を持つのだろうか? 夏になれば怖い話の書籍やテレビ番組が怒涛のように現れる。ホラー映画は高い興業成績を誇る。 何故だろうか?
そもそも、まだ人類の歴史が始まる頃、正体のわからぬモノに名前や姿を与えて納得しようとしたのではなかったか。 それが神や妖怪として恐れ敬われてきた。
死は伝染すると考える宗教もあった。 死者を地中に埋め、石などで封じる事で生者の世界から死者を追いやった。 それだけだと祟りを起こすと思い、神格化して生者を守護させようと考えた。 我が国の墓の原点にはこの様な考えが根底に流れていると思われる。
言語が生まれ、交流が始まり、壁画から文字を生み出し、交流から言語や文字を発達させて、歴史は綴られてきた。 挨拶、日常会話、そして物語が伝わっていく。 不可解な出来事や英雄の話はやがて神話や伝説になる。
山や川を越えて、時には海を渡って交流は発展していく。 各国の物語は口から口へと伝えられていく。
飢饉が起きる。肥沃な土地が欲しくなる。 隣の村を襲う。 蹂躙し、奪い、殺す。 正当化して納得しようとする。 しかし、怖いのだ。殺した相手が。 死が自分を捕らえたら…。
そこで、悪を退治した、という物語から、殺した相手を神として崇めるようにして、被害が自分たちに及ばないようにする。
非業の死を遂げた者ほど強く祟る。 だから、崇め奉る事により神とし、守護してもらうようにする。 そんな都合のいい考えで神になった人たちがたくさんいた。
自然界を司る神への奉納として人を捧げた事もあったという。 逃げられないように片目を潰し、片足にした人を神に捧げた。 やがて彼らも神格化され、後に妖怪化した。 ひでり神、一つ目小僧、夜行さんなどがそれであるとされる。 妖怪は神が零落した姿でもある。
現代では全てを合理的に考える事が当たり前であるとされる。 しかし、それは心を貧しくする事にも繋がる。 不可思議な事象も認め、恐れ、敬う気持ちが無いと自然界に対し増長する。 自らを「霊長類」と呼び、万物の頂点に君臨したつもりになってる。 しかし、その増長が自然を破壊し、多くの貴重な存在を滅ぼしてきた。 そのつけはいつか支払わねばならなくなるだろう。それはいつのことだろうか? 数万年後かも知れない。明日かも知れない。 しかし、来ないという事は無い。
フロンガスの使用によりオゾン層は破壊され、強烈な紫外線は地上に住む我々に影響を及ぼしている。 気温は年々上昇し、北極と南極の氷は溶ける一方だ。それにより海抜は上昇し、沿岸部が海の底になるのは時間の問題だ。 自然を敬う気持ちがあれば自然と共存していける。 しかし、それは同時に不便な生活に戻る事にもなるだろう。
それに我慢が出来ないから資源を膨大に消費する事を止める事が出来ない。 こうした事を考えるとき、いつも旧約聖書に出てくるバベルの塔の寓話を思い出さずにはいられない。 神の住む天界に届かんばかりの長大な塔を建造した人類に怒った神が雷により塔を破壊し、人々の言葉を乱し、互いに会話する事を出来なくさせた。 混乱をもたらしたこの塔を「バベル(混乱)」と呼ぶようになった、というアレである。 不遜な者には裁きの鉄槌が下される。 その事を忘れ、私利私欲に走っている。
しかし、ここまで書いておいてなんだが、オイラは徒歩で行ける範囲にコンビニが無きゃ安心出来ない現代病患者である。 自然回帰を唱えるつもりも無い。 しかし、闇を怖がる気持ちは大切にしていたい。 家の隅に、夕暮れの街角に、知らない土地にある小さな闇。 そこに潜んでいるであろう住人たちを恐れ、そして愛する気持ちが大切だと思うのだ。
妖怪や幽霊に住処を残したい。 畏れる気持ちが彼らの住処だ。 オイラは例えこの世の全てが暴かれたとしても、でも、もしかしたら、と畏れる気持ちを持ち続けるだろう。
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