立教大学と俺

19、20歳の頃、立教大学にあったダンスサークル「St.Paul's Musical Company(通称:M研)」に所属していた。
元々はその名の通り、ミュージカルのサークルだったのだが、徐々にダンスのサークルになったらしい。
俺が参加した頃、サークルのメンバーは十数人という、小規模なものだった。

今はどうだか知らないが、M研は大学から認可を受けていない自主的な集団であり、他の大学の学生や俺の様な学生以外の参加者もいた。

池袋西口公園にある芸術劇場の周囲で閉館後に踊ったり、近所の小学校の教室を借りたり、学内にあるウィリアムズホール(通称:ウィリホ)などで練習していた。
俺が参加した当初はジャズダンスがメインだったが、徐々にストリートダンスの希望者が爆発的に増えた。

今でこそ昔話に聞こえるかも知れないが、あの当時(15年くらい前)は確かに、「ジャズダンサーによるストリートダンス蔑視の時代」だった。
曰く、「遊びの踊り」
曰く、「姿勢が悪くなる」
曰く、「基礎がなってない」
曰く、「すぐに廃れる」
などなど、かなり批判的な意見を受けていた。
まぁ、いつの時代も新しく出てきたものに対する風当たりは強いものである。
人は、得体が知れないものを本能的に避けたがるものだ。
今でこそ、ストリートダンスをテレビで見かけない日は無いくらいになったが、あの当時はまだ、歌番組のバックダンサーはジャズダンサーが殆どだった。
10年一昔と言うが、ダンス界においても10年という歳月は長いものだ。
歌番組のバックダンサーは、ストリートダンス主体になると、あの当時、思っていた人はごく僅かだったろう。

M研もまた、その時代の流れに翻弄されようとしていた。

サークルの部長が替わった時、正に「政権交代」が起こったのだった。
「これからは、ダンスのサークルに。名前も『D-mc』とする」
かくして、St.Paul's Musical CompanyはD-mcと名前を改め、現在に至る。
ちなみに、D-mcのmcとは「Musical Company」の意味である。

ダンスのジャンルもストリートダンスがメインとなり、D-mcと名称が変わった当時、ジャズダンスを踊る子の人数が大幅に減少した。

M研の頃は、まだ演劇的要素を多分に残しており、公演はダンスと芝居が半々くらいの割合で行われていたのに対し、D-mcになってからは、完全にダンスの公演となり、ダンスの演出の一つとして、簡単な芝居、もしくは事前に撮影された動画を流すようになった。

あの当時から現在も、何故か大学のダンスサークルの公演は小芝居が挿入されたりするのだが、あれはこの時代からそういう流れがあったからだと思う。

D-mcは関東大学学生ダンス連盟∑に参加しており、他大学との交流も盛んだが、特にこの当時は青学のADLや東京理科大のAQUARIUSなどと繋がりが深く、相互に影響を与え合っていたものと思われる。
ちなみにADLは昔からプロの演出家さんがついており、公演はストーリー仕立てのものが殆どである。

たまに大学のダンスサークルの公演を観に行く事があるのだが、いまだにあの当時と変わっていない舞台を観ると、20歳の頃にタイムスリップをしたかのような、奇妙な既視感を覚える。

しかし、参加者の人数は圧倒的に今の方が多い。
普通に数百人規模なんてサークルも珍しくない。
ダンスもメジャーな存在になったんだなぁ、と感慨深いものを感じる。



俺はD-mcと名が変わった後、きちんと脱退の意思は表明しないまま、段々とサークルから疎遠になっていった。
もちろん、同期や後輩たちと仲が悪くなった訳では無いし、むしろ仲のいい友人が多く在籍している集団だったのだが、なんとなく顔を出さなくなり、足が遠のいたのだった。

その頃、しばらくはウィリホの三階で個人的にダンス指導などを行っていた。
当時参加していた、よさこいソーランの「東京学生 生っ粋」で知り合った他大学の後輩や、当時の彼女にハウスを教えながら、ダンス指導のノウハウを自分なりに模索していた。
それが、後々今の仕事に結びつくのだから、ウィリホには足を向けて寝られない。

ウィリホと言えば、M研時代に怖い体験もしたのだが、詳細はここでは語らない。
詳しくはコチラ。 → http://dancernorimitsu.blog94.fc2.com/blog-entry-365.html



M研やD-mc以外にも、お世話になったサークルがある。
演劇研究会(通称:劇研)である。
劇研とM研は、かねてから交流があり、劇研のナカタニさんや、同い年で後にダンスチーム「OFF THE LOCK」として一緒に踊ったタニー(谷口浩久)らとは特に仲良くして貰った。
互いの公演時には手伝いをするような間柄で、かつ、俺はナカタニさんの舞台のファンだったので、一緒に立て看板を組んだり、大道具をこしらえているときなんかに話せるのが凄く嬉しかった。

あるとき、ナカタニさんから
「のりちゃん、今度ワークショップをやるんだけど、役者の動きを見てやってくんない?」
と声をかけてもらった。

それから、ナカタニさんが主催するt-floorというユニットに振り付けとして参加させてもらい、「演出家さんの持っているイメージを動きで表現する」という事を学んでいった。
今考えると、東京ミルクホールさんの振り付けも、演出の佐野さんから伝えられたイメージを形にする作業なので、ここでの経験が生きていると言えよう。



あの頃の立教大には、本当にお世話になったなぁ、としみじみ思う。
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【昔話】ストリートダンスとオイラ。【1995~2000】

【昔話】十九、二十歳。【1994~1995】からの続き。



大好きなSPICEHOUSEを習えるようになり、HOUSEという踊りに対する興味は広がっていった。
SPICEというチームは元々、ヘルス&スポーツ学院というダンスの専門学校の卒業生が結成したチームで、メンバーはあらゆるダンススタイルを踊りこなしていた。
その先生たちの
「どんな曲でも踊れた方がいい」
という言葉を受けて、オイラもHOUSE以外のストリートダンスにも興味を持つようになっていった。



JAZZを最初に習った田畑先生は昔、DISCOでファンキーフルーツというジャンルのダンスを踊っていた。
ファンキーフルーツというのは、LOCKIN'に非常によく似たダンスである(ファンキーフルーツについてはJINさんのサイトが詳しい)。
たまにファンキーフルーツっぽい振り付けをしてくれた時にオイラが喜んでいるのを見た先生は、
「のり、こういうのがやりたかったら、さくちゃんとこ行くといいよ」
と言ってくれた。
さくちゃん、とはSpartanic Rockersの佐久間浩之先生の事である。昔ながらの友達らしい。


しかし、田畑先生に習っていた頃は田畑先生以外の先生に習う気が全く無かったので、行かなかったのだが、22歳くらいの頃、立教で知り合った谷口浩久(TANNIE)という友人(OFF THE LOCKというチームを組み、CONNECTなどでしばらく活動した仲間の一人)がLOCKIN'に興味を示し、佐久間さんに習い始めたと聞き、スクールに連れて行ってもらった。



「おー、タバっちゃんに習ってたんだ?懐かしいなぁ。タバっちゃん、元気?」
佐久間さんは凄い気さくに話してくれた。
クラスはまるで大学の講義のようだった。
ステップ毎の名前や由来を教えてくれた。
ダンスの生き字引みたいな先生だ。

しばらく佐久間さんのSOUL LOCKIN'のクラスに通ったり、同じスクールのHIDEKAZUさんのHIPHOPSTAX GROOVEのSHUNさんのBE BOPもかじったりした。



TANNIEは当時、やはり試行錯誤をしていて、LOCKIN'やBE BOP、CAPOEIRAなど様々なクラスを受けまくっていた。
友人のそんな姿勢に刺激を受け、オイラもやはり色んなスクールに行きまくった。
先生によって考え方も教え方も違う。
それが面白かった。

段々と動きの骨組みみたいなものが理解出来るようになった。
そうなると、他人の動きを見て盗めるようになった。
スクールに通わず、CLUBに通うようになった。


CLUBのダンサーたちは生きた教材だった。
観察して動きを盗み、練習する。たまにバトルを仕掛けたりもした。
見知らぬ他人だったダンサーたちと仲良く踊るのにハマっていった。
中にはとんでもなく上手い人がいて、あっさりとやっつけられちゃったりもしてたんだけど。



スクールに通わなくなり、サークルも行かなくなり、チームのメンバーと外で練習するようになって、次第に
「オリジナリティって何だろう?」
と悩むようになった。
人の動きをパクるのには慣れたのだが、そっくりに踊っても、それは自分らしさのカケラもない動きだ。



SARAさんは毎回、
「オレの真似はするな!」
と口をすっぱくして言っていた。
スクールでダンスを習うのが当たり前だったから、何故真似しちゃいけないのか、よくわかってなかった。
しかし、その言葉の意味に気づいた時、自分が今までやってきた事を否定したくなってしまった。

自分なりの動きを探そう。そう思って踊り方を変えた。
柔らかい動きを硬く。しかし、それも誰かの真似のような気がして。
スランプに陥っていた。

形にこだわり過ぎていたのだと思う。
単純に音を聴いてノるのでは無く、考えながら動いていた。
踊りでは無く、動きをなぞっていただけだった。

自由に踊りたかったはずなのに。

そして、先生の伝えようとしていた事がわかって無かった事を後悔した。



しかし、この頃、何故か先生たちから頻繁に代行を任されるようになってきた。
SPICEの面々の代行が出来るのは嬉しかった。
しかし、同時に
「自分の踊りって何だろう?」
と悩んでいた。

ドレッド


24歳の頃、D-mcと名前が変わって久しいM研の後輩であるゆうじくんと電話で話していた。
「ゆうじくん、RAVE出ない?」
「のりさん、RAVE出ませんか?」
ほぼ同時に同じ事を言っていた。

当時、SAMさんがナビゲートするダンス番組『RAVE2001』がやっていた。
「とりあえずやってみよう」
2人だと寂しいから、そんな理由でゆうじくんは友達に声をかけて連れてきた。
万里というその青年は、借りてきた猫のように物静かだったが、たまたま漫画の話を振ったところ、異様なまでの情熱を持って語り出した。
以来仲良くなり、よく連むようになった。

無事、オーディションに受かり、『YUJI+BANRI+NORI』として出演した。

ゆうじくんは大学卒業後、地方に就職が決まっており、このメンバーでは一度だけしか踊っていない。



その年の初夏、オーディションがあった。
trfが鈴鹿8耐の前夜祭のライブをする。その時に一緒に踊る100人のダンサーのオーディションだった。

物凄い人数が集まり、ほぼ一日かけて100人が選ばれた。
どうにかその中に入る事が出来た。そこから更に追加曲のオーディションがあり、20人の中に入れた。2曲分の振り付けを覚えるのは大変だったが、嬉しさに震えた。



鈴鹿に行く前日の晩、CLUBで酒を飲んで踊っていた。
何も考えずにただ暴れていると、それが段々と心地良くなってきた。
馬鹿みたいに踊った。
誰が観てる訳でも無いし、楽しければいいや。
そう思って汗だくになって踊りまくった。
汗でアルコールが抜けても、まだ踊り続けた。
次はこのリズムに合わせよう。
形じゃなく、音を取る事だけを考えた。
いつしかそれすらも考えずに、ただ音楽に身を委ねていた。

それを見ていた友人に、
「のりちゃん、凄い楽しそうだったよ。何か殻が取れたみたいだった」
と言われた。

ヘトヘトになったけど、気持ちは晴れ晴れとしていた。
踊るって楽しいなぁ、そう実感した。

CLUBから始発で帰宅して、まとめておいた衣装などの荷物を掴んで家を出た。
新宿の高速バス乗り場に集合して、鈴鹿に向かった。
オーディションの日以来、一度だけavexでリハーサルをした。
それ以来だったので、不安もあったが、本番が楽しみだった。

現地に着くと、旅館に荷物を置いてのんびりした。
夜にゲネ(本番同様のリハ)をしている途中、雨で中止になり、不安になる。

翌朝から再びリハーサル。
炎天下のサーキット場周辺は日差しを遮るものも少なく、汗だくになりながら、ひたすら踊りまくった。
段々と他のダンサーたちとも打ち解けてきて、楽しくて仕方なくなった。

サーキット場の上で踊った『Unite! The Night!』、そしてtrfと共にステージ上で踊った『EZ DO DANCE』。
本番はメチャクチャ楽しかった。
trfの歌じゃないが、
「20世紀で最高の出来事」
だった。



こうして、20世紀最後の夏が終わった。





ある日、スクールの先輩から声をかけられた。
「田中くん、スポーツクラブでHIPHOP教えない?」
二つ返事で引き受けた。
自分の受け持ちのクラスが持てる!

更に友達づてにスポーツクラブでHOUSEを教えないか、という話が来た。
バイトとインストラクターという二足のわらじ生活が始まったのだった。

サークルや屋外スクールとしてしばらく後輩にダンスを教えたりしていたし、代行もしていたので、ダンスを教える事には慣れていた。
しかし、『ダンスをやりたい、という訳では無いが、身体を動かしたい人』に対する教え方には慣れていなかった。
しかも、スクールは1クラス平均90分なのに対し、スポーツクラブでは60分であった。
3分の2の時間内で進めるにはどうしたらいいんだろう?
試行錯誤しながら、少しずつ、コツを掴んでいった。


ダンスに限らずどんな事でも、とりあえず初めてでもなんでもやらなきゃ始まらないし、やっていくうちにエキスパートになっていくものだと思う。
勿論、仕事としてお金をもらう以上は常に楽しめる内容を提供していかねばならない。

振り付けの難易度のバランスや、急遽振り付けを変更出来るように対処能力を養っていった。
自分が既に当たり前の事として解り切ってる内容を、全く知らない人に説明する為には、どうしてそうなのか、きちんと理解していなければ伝える事が出来ない。
人に教える事で、自分も学び直す事が出来るのだ。
難しいけど、やりがいを感じる。


ダンスを教える事だけで生活出来るようになりたい。そう思うようになっていった。
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【昔話】十九、二十歳。【1994~1995】

【昔話】ダンスをやろうと思った事。【1983~1994】からの続き。



高校を卒業した。
クラスメートの一人には、芸人になると思われていた。



多少、仕事も経験した。
ドラマのエキストラや、事務所所属アイドルのバックダンサーなどなど。
こんな事したくて入ったんじゃないのにな、なんて思ってた。生意気な研究生だった。

バイト、レッスン。そして、半期遅れで入ってきた後輩との飲み会。それが毎日になった。

後輩、と言っても色んな人がいた。
小学生から10歳以上年上の人。

オイラがよく連んでいたのは年上の後輩たちだった。
彼らにはよく酒で潰された。
毎晩、吐くまで飲まされた。一気飲みは当たり前。ハッキリ言ってバカだ。
でも、凄いよくしてくれた。



ある日、将来の夢の話になった。
「オレさぁ、やっぱ俳優じゃなくてダンサーになりてぇんだよね」
そんな事を言ったと思う。

次のレッスンの後、ダンスの先生に呼び出された。

「田中、お前ダンスの公演に出ない?」

嬉しくて小躍りした。
先生は
「仲間想いの友達を持ったな」
と、年上の後輩たちの名前を言った。

目頭が熱くなった。
毎晩、馬鹿騒ぎしてるだけの仲だと思ってたのに、オレの夢の手助けをしてくれた…。
彼らの好意を無駄には出来ない。

「お願いします。オレを出して下さい!」



翌週からリハーサルが始まった。


周りはダンスのプロとして舞台やテレビの世界で生きてる人たちばかりだった。
ターンを5回以上回れる人がゴロゴロしていた。

ヤバいとこに来ちまった…。
でも、しがみつかなきゃ。



オイラは
「劇団の子」
と呼ばれていた。
俳優養成所の生徒だから踊れない、お豆ちゃんだという意味だ。
しかし、負けたらダメだ、というプレッシャーなのか、彼らを出し抜きたい、という負けん気か、振り付けを覚えて休まずに練習しまくった。
いつしか呼び名が
「劇団の子」
から、
「田中」
に変わった。
それまで振り付けを間違って覚えていても直されなかったが、
「田中、そこはこうだよ」
と直してくれるようになった。



舞台の本番は緊張よりも楽しかったし、嬉しかった。
今から考えれば、ただの発表会に過ぎなかったのかも知れない。
でも、その発表会のメンバーになれた事が嬉しくて楽しくて仕方無かった。
左下が俺。19歳の頃。日本ジャズダンス芸術協会「秋の祭典」出演時。

養成所、辞めてスクール通おう。
自然とそう思った。



オイラたちの代は養成所を辞めていく人間が多く、残ったのはわずかに7人だった。
養成所側としては、半期後輩のクラスと合同で卒業公演をさせたがっていたのだが、どうしてもやるんだ、と半ば自主公演、という形で卒業公演を行った。
脚本、演出、振り付け、衣装など、全て自分たちだけで行った。
オイラは生まれて初めて振り付けを作った。
当時、RAPと呼ばれていたHIPHOPやUK HOUSE、RAGGAEを聴くようになっていて、やっぱりそういう曲を使いたがった。
しかし、JAZZ DANCEしか習った事が無かったので、見よう見真似でtrfのPVなどから動きをパクって無理やり作った。
かなり詰め込み過ぎて踊りづらいものだったのだが、みんな頑張って踊ってくれた。

名ばかりの卒業公演が終わると、ソッコーで辞める旨を伝えた。
別に引き留められもせず、あっさりと終わった。



翌週からすぐにダンスレッスンを受けにスクールに通い出した。

「ダンサーになるならバレエもやった方がいい」
と薦められて、バレエも受けた。



6歳上の登坂良樹さんという先輩が凄く良くしてくれた。
彼はプロとして喰っていて、他のダンサーからも一目置かれていた。
彼の主宰する『H.S.ART』という表現者集団に混ぜて貰い、何故か主演までさせて頂いた。
ほぼ一人芝居、という過酷な舞台だったが、凄い嬉しかった。

しかし、この頃のオイラは上手くなりたい為だけに踊るようになっていた。
段々と踊る事が苦しく思うようにもなっていた。



自由に踊るSAMさんみたいなダンスがしたいな。
そう思う気持ちと、当時「FUNKY」と呼ばれていたストリートダンスを蔑視する先輩たちの意見に板挟みになっていた。



丁度その頃、良樹さんが学生時代に所属していたという、立教大学のダンスサークル『St.Paul's Musical Company』、通称『M研(現・D-mc)』に入りたい、と思うようにもなっていた。

比較的FUNKYに理解のある先輩に話を聞いたりして、聞けば聞くほどに踊りたい気持ちは焦がれた。

M研に所属していたスクールの友人をつてにM研に入れて貰った。
JAZZはもちろん、LOCKIN'HIPHOPHOUSEをやっている先輩たちがいて、自分がやりたかったジャンルはHOUSEというのだ、と初めて知った。

以来、HOUSEにのめり込み、鶯谷にあったスクールの夏期集中講座に申し込み、そこでSPICEのかつぞうさんに出会った。
SAMさんともまた違ったHOUSEを踊るかつぞうさんのクラスは楽しくて仕方無かった。
これだ、オレがやりたかったものはこれだったのだ!!!!!



JAZZのスクールから、M研とバイト、CLUBに通うようになった。



六本木R?hallに初めて足を踏み入れた時、正直ビビっていた。
CLUBが初めてだってバレたくなかった。
しかし、周りで自由に踊るダンサーたちは手が届かないくらいカッコよくて、眩しかった。
オイラは彼らの動きを観察し、真似する事を繰り返した。
当然、同じようには踊れない。
自分とストリートダンサーたちの壁の厚さを感じた。
どうして、彼らは振り付けもなく自由に踊り続けられるのだろう?
レッスンからダンスに足を踏み入れた為、そういう観念にとらわれていた。


秋頃に高円寺にスタジオがオープンする、というフライヤーを手に入れた。
講師にはSPICEのメンバー、SARAさんKENさんの名前があった。

通うしかないな。

オープンするや入会した。

このスタジオはバレエ、ジャズも充実していたのだが、HOUSEとLOCKIN'のクラスがあり、しかも、HOUSEは週に2クラスあった。当時としては珍しくHOUSEに力を入れていたスクールの一つだった。



SARAさんとKENさんのレッスンに毎回出た。
わからない事だらけだし、姿勢が良過ぎてダメ出しされまくったけど、ヤバいくらい楽しかった。
当時のスタジオでのオイラの呼び名は「SARAっ子」。毎回クラスを受けていたからだ。

4ヶ月くらい経ったある日、SARAさんに
「田中くんさぁ、イベント出てみない?」
と言われた。
聞けば、他にも何人かでチームを組んで出るという。
まだ早い、とビビる気持ちと、JAZZで幾つかの舞台に立ってきた自負が混ざり合い、変な気分になったが、
「やります!」
と返事した。
こうしてSARAさんクラスの生徒の即席チーム、『さらまんた』が結成された。

新宿の路上で練習を繰り返した。
ガラスを鏡の代わりにして踊った。
今まで、リハーサルの合間にガラスで練習した事はあっても、毎回毎回外で練習するのは凄い新鮮で楽しかった。
それまで知らなかったダンサーたちとも、隣で練習してるってだけで仲良くなれた。
ストリートダンスは楽しいなぁ。しみじみ思った。



しかし、イベント当日になって驚いた。
出るのはR?hallの人気イベント『CONNECT』だった。
SPICEやTR∀MP、GRASS、COPPERTONE、電撃チョモランマ隊、といった先生たちのチームが出ているようなイベントだったのだ。

こんなんに出ていいのかよ?
かなり腰が引けた。

本番は訳の分からないうちに終わった。

二部は先生たちのチームが目白押しだった。今から考えると、ゲストチームだらけのショータイムである。
よくこんなイベントが毎月やってるなぁ、とビックリするよな凄いダンサーたちが出演していたのである。
観てるだけでワクワクして踊りたくなってくる。
しかし、圧倒的なスキルを前にヘコんだ。


SPICEみたいになりたい。
毎日そんな事ばかり考えていた。



【昔話】ストリートダンスとオイラ。【1995~2000】へ続く。
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【昔話】ダンスをやろうと思った事。【1983~1994】

昔の話を少し書いてみよう、と思う。





ウチの母はビートルズ世代で洋楽大好きっ子だった。

オイラが物心ついた頃、常にラジオのFM局から洋楽が流れていた。
オイラは、フリオ・イグレシアスEARTH,WIND & FIRECHICなんかを子守歌代わりに聴きながら育った。

オイラが幼稚園に通うようになると、母は高校時代まで社交ダンスをやってて元々ダンス好きだった為、JAZZ DANCEを習い始めた。

母の出演する発表会を観に行ったり、スタジオの隅でレッスンが終わるまで待っていたりする度、
「のりくんも踊りなよ」
と言われるのが嫌だった。
極度の人見知りだったオイラは、ダンス以前に気の許せる人以外と喋る事すら出来ない内気な子供だったのだ。
人前に出るなんて…。
考えた事も無かった。

映画や芝居、落語など、様々な舞台を観に行ったりもしたが、自発的にやってみたい、とは思えなかった。

近所の子が通ってるから、という理由でリトミック教室に通わされるようになったのは、小学3年生の頃。
とにかくリズム感無し、運動神経無しのオイラにとってリトミック教室は重荷ではあったのだが、ある日、先生がビデオでMICHAEL JACKSONの『THRILLER』を見せてくれた。



物凄いショックを受けた。
何だ、これは!?
ミュージカルとも違う、ダンスなんだけど、今まで観た何よりもカッコ良かった。
ただ、やはりやれるものでは無い、と思っていた。

以来、しばらく音楽やダンスから離れ、ゲーム、漫画、アニメ、本にドップリ浸かり、オタク人生まっしぐらになる。

中学生の頃、親友のよっちゃんがTM Networkのアルバム『CAROL』をくれた。
それまでのオイラは歌番組で出てくるアーティストの歌は知っていても、特にこのアーティストの曲が聴きたい、という感じで音楽を聴いて来なかった。

この頃はJRのCMでZOOが出てたりしたが、ダンスには興味が無かった。

しかし、特定のアーティストのアルバムを手に入れた事で、音楽に対する興味がやたら湧いてきた。
当時、上の階に住んでいた先輩がB'z のアルバムを貸してくれたりして、次第に音楽に目覚めていった。
同級生にブルーハーツ をダビングしてもらったり、姉のカセットテープを借りたりして、音楽を聴きまくった。
中学卒業の頃、高校に行ったらバンドを組もう!という話が友人たちの間で出た。

また、春休みに例の先輩が部活の自主公演に誘ってくれ、その舞台にいたく感動したオイラは、人前に出たい願望がフツフツと湧いてきた。
一年生になったら、友達100人作ろう、と本気で思った。

高校に入学し、仲良くなった外部生に声をかけまくったりした。
1年の頃は、演劇部や音楽部(合唱部)で忙しく、バンドは組めなかったが、2年生になり、後輩の一人をヴォーカルに迎え、『Virgin』という恥ずかしい名のバンドを結成。
オイラの担当はジャンケンに負けてベースになった。

一丁前にスタジオ借りて練習したり、学園祭でライブ(と言っても3、4曲程度だが)したりした。
しかし、音楽性の違いで解散。
12年(高3)の夏。当時、バンドは解散してたけど、家でベース練習してた頃の一枚。
オイラはヴォーカリストになりたい!という願望があったので、ヤ●ハのヴォーカルスクールと、そして、突っ立ったままだと橋幸夫みたいなので、ダンスも習い始めた。
吉祥寺ダンススクールというスタジオでJAZZ DANCEを習った。


大好きだったB'z『EASY COME,EASY GO!』のPVと、TMN『RHYTHM RED BEAT BLACK』のPVを観て、
「やっぱヴォーカリストは踊れないとね」
なんて思ってた。

B'z『EASY COME,EASY GO!』


TMN『RHYTHM RED BEAT BLACK』

まさかこの数年後に安室ちゃんやDA PUMPみたいなダンスヴォーカルグループが流行るなんて夢にも思ってなかった。

先生は母と姉の友人で、TMNのPVに出てた田畑幸一先生。
キレのあるカッコいいJAZZ DANCERだ。

当時のオイラは、ダンスにジャンルというものがある事を知らなかった。
trfのSAMさんみたいなダンスをやりたい、と思ってたけど、それはそういう振り付けで、男の先生に習ってれば、いつかやるもんだと思ってたのだった。
憧れの先生に習えて嬉しかった。
習った振りを家で練習していて、母に
「タバちゃんっぽい動きになってきた」
と言われて嬉しかった。

よく学校の廊下にある鏡の前で練習した。
「田中ぁ、何踊ってんだよ」
とからかわれたりもした。
でも、ターンをしたり、振り付けを覚えるのが楽しくて、気がついたらダンスにハマってた。

ヤ●ハのヴォーカルスクールは半年くらいで辞めた。
ダンススクールに通いながら、高田馬場のロッ●リアでバイトをした。
3年生になり、当時付き合ってた恋人と別れ、落ち込んでも、ダンスがある毎日は楽しかった。
習っていたスクールの忘年会かな?左下の緑のチェックシャツのロン毛が俺。その右隣が田畑幸一先生。




進路を決めなきゃいけない。
みんな、大学受験に向けて頑張ったり、それぞれの未来に向けて目標を掲げ始めていた。
オイラはダンスで喰っていく。それしか無かった。
しかし、それを両親に話した時、やっぱり反対された。
母は特にダンサーをたくさん見てきた。
男のダンサーが食いっぱぐれているのをたくさん見てきたのだ。
父は頭ごなしだった。
大学、サラリーマン一辺倒の父は、オイラの生き方に不安を感じていた。

あの頃のオイラは根拠無き自信があった。
それが若さなのかも知れない。
しかし、その根拠無き自信のお陰でか、両親を渋々ながら説得、ってゆうか、
「もう知らん!勝手にしろ!!!!!」
と言う有り難いお言葉を頂戴する事に成功した。

母はそれでも知恵をつけようと思ったのだろう、ある日の新聞に掲載されていた俳優養成所の広告を見せてきた。

「お前、俳優にならなくても、歌とか習っておけば、多少は潰しが効くかも知れないし、芸の肥やしにはなるんだから」
そんな事を言われて、オーディションを受ける事にした。
将来はダンサーで喰っていく、なんて思ってた割には、結構行き当たりばったりな生き方だ。
親が心配するのも無理は無い。

某俳優の主宰する俳優養成所のオーディションに受かったオイラは、そこで演技、ダンス、殺陣、歌唱のレッスンを受けるようになった。
それまで週2回通っていたダンスレッスンは、どちらも養成所のレッスンとかぶっていて通えなくなった。
悔しいけど、養成所を選択した。

養成所のレッスンはまぁまぁ出来る部類の生徒だったと思う。
高校1年から演劇部と音楽部、2年からヴォーカルスクール、ダンススクールに通っていたのだから、下地は多少出来ていた。だから難なくついて行けたし、無難にこなせた。
しかし、それだけの面白みの無い生徒だった。
表現者として、一番良くない。
中庸。それが当時のオイラだった。

でも、当時のオイラにはそんな事はわからない。
多少自信を持って臨んでいたと思う。

高校、バイト、養成所。そのサイクルに満足してた。



【昔話】十九、二十歳。【1994~1995】へ続く。
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NORIMITSUのプロフィール。

東京生まれ。
幼少の頃、マイケル・ジャクソンの『スリラー』を観て衝撃を受けるが、持ち前の引っ込み思案が災いし、「(ダンスは)自分には無理」と諦める。
小中学校でドップリ「オタクカルチャー」にハマり、自他共に認めるガンダムオタクである。好きなモビルスーツは、量産型ザクとアッガイ。
また、TRPGゲーマーでもある。好きなシステムは新和版D&D、ロードス島戦記コンパニオン、ソード・ワールドRPG
しかし、音楽には元々興味があった為、バンドを組もうと思うようになり、ジャンケンで負けてベース担当になる。
中学卒業直後、高校入学直前に先輩たちの自主公演を観劇し感激。演劇部と音楽部(合唱部)に入部する事を固く決意する。
「10年生になったら友達100人出来るかな?」をスローガンに男女問わず声をかけまくる、いわゆる高校デビューを果たす。
バンドは「音楽性の違い」というありがちな理由で解散。ヴォーカリストを目指す。
突っ立ったまま歌うとなると、まるで橋幸夫さんのようなので、ダンスを習う事にする。
trfのSAMさんに憧れていたのだが、ダンススクールや俳優養成所でジャズダンス(某金融ショップのCMでおなじみのジャンル)とバレエを習う。
20歳の頃、SAMさんの踊ってるダンスジャンルがハウスだと知り、愕然とする。
急遽、ストリートダンスに路線変更。座右の銘は「急がば回れ」。
ダンスチームを結成してクラブイベントに出たり、ダンスの仕事をしたりして、24歳の頃にダンスインストラクターとして、ダンススクールやスポーツクラブなどでクラスを持ち、ストリートダンスを教えるようになる。

2012年8月1日、六代目三遊亭円楽に入門、「楽天」と命名される。
2015年10月1日、「楽天」のまま二ツ目昇進。



【主な芸歴】
日本ジャズダンス芸術教会『秋の祭典』出演
H.S.ART第二回公演『BLUE』主演
東京ディズニーランド「ミッキーのダンスフィーバー」TVCM出演
テレビ東京系『RAVE2001』出演
鈴鹿8耐前夜祭『RIDE & LIVE』TRFライヴバックダンサー出演
フジテレビ系『SMAP×SMAP』出演
お台場どっと混む!2002『遊城』Dur mollライヴバックダンサー振り付け・出演
テレビ東京系『BEATOPIA』DT CRUSH!出演
劇団東京ミルクホール公演振り付け洋舞担当
SONY 50時間連続再生MP3プレイヤー 50時間連続ダンスキャンペーンダンサー
フジテレビドラマ『トップキャスター』出演
映画『バックダンサーズ!』出演
氣志團『The アイシテル』PV出演
東京ガールズコレクション 2007 AUTUMN/WINTER DJ OZMAライヴバックダンサー出演
他多数



【レッスンスケジュール】
月曜日(隔週)
ドゥ・スポーツプラザ 南砂町(南砂町ショッピングセンターSUNAMO 4階)
http://www.dspnet.co.jp/minamisuna/index.html
20:30~21:00
ダンス基礎

21:10~21:55
週替わりダンス


火曜日
GOLD'S GYM 幕張千葉ANNEX (プレナ幕張 3階)
http://www.goldsgym.jp/shop/index.html?id=018
20:15~21:15
HOUSE


水曜日
ドゥ・スポーツプラザ 南砂町
13:30~13:45
ダンス基礎

13:50~14:35
HOUSE


金曜日
GOLD'S GYM 幕張千葉ANNEX
12:10~13:10
HIPHOP


土曜日
長渡スタジオ(江戸川区東葛西)
http://dancernorimitsu.blog94.fc2.com/blog-entry-46.html
18:00~19:30
HIPHOP(※こちらだけ要予約です。メール下さい)

19:30~21:00
HOUSE


日曜日
ドゥ・スポーツプラザ 南砂町
16:30~17:30
HOUSE


たまにNORIMITSU名義であちこちで代行したり、祝日特別クラスやったり、単発でワークショップしたりしてます。

ワークショップ承っております。
メールにてお気軽にご相談ください。




【お問合せ】
090-4170-0800
nori.school★gmail.com

※スパム対策の為、@を★にしています。
コピー&ペーストして送信される際はご注意下さい。


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プロフィール

NORIMITSU

Author:NORIMITSU
※当ブログからのテキスト、画像などの無断転載、無断使用を禁じます。


東京生まれ。
幼少の頃、マイケル・ジャクソンの『スリラー』を観て衝撃を受けるが、持ち前の引っ込み思案が災いし、「(ダンスは)自分には無理」と諦める。
小中学校でドップリ「オタクカルチャー」にハマるが、音楽には元々興味があった為、バンドを組もうと思うようになり、ジャンケンで負けてベース担当になる。
中学卒業直後、高校入学直前に先輩たちの自主公演を観劇し感激。演劇部と音楽部(合唱部)に入部する事を固く決意する。
「10年生になったら友達100人出来るかな?」をスローガンに男女問わず声をかけまくる、いわゆる高校デビューを果たす。
バンドは「音楽性の違い」というありがちな理由で解散。ヴォーカリストを目指す。
突っ立ったまま歌うとなると、まるで橋幸夫さんのようなので、ダンスを習う事にする。
trfのSAMさんに憧れていたのだが、ダンススクールや俳優養成所でジャズダンス(某金融ショップのCMでおなじみのジャンル)とバレエを習う。
俳優養成所のダンスの先生の公演出演を通じ、立教大学のダンスサークル「St.Paul's Musical Company(現・D-mc)」に所属。
20歳の頃、SAMさんの踊ってるダンスジャンルがハウスだと知り、愕然とする。
急遽、ストリートダンスに路線変更。座右の銘は「急がば回れ」。
ダンスチームを結成してクラブイベントに出たり、ダンスの仕事をしたりして、24歳の頃にダンスインストラクターとして、ダンススクールやスポーツクラブなどでクラスを持ち、ストリートダンスを教えるようになる。

現在、落語家「三遊亭楽天」として全国各地で落語の口演を行っている。
2012年8月、六代目三遊亭円楽に入門、「楽天」と命名される。
2015年10月、「楽天」のまま二ツ目昇進。



【主な芸歴】
日本ジャズダンス芸術協会『秋の祭典』出演

H.S.ART第二回公演『BLUE』主演

東京ディズニーランド「ミッキーのダンスフィーバー」TVCM出演

テレビ東京系『RAVE2001』5thステージに「YUJI+BANRI+NORI」として出演

鈴鹿8耐前夜祭『RIDE & LIVE』TRFライヴバックダンサー出演

フジテレビ系『SMAP×SMAP』出演

お台場どっと混む!2002『遊城』Dur mollライヴバックダンサー振り付け・出演

テレビ東京系『BEATOPIA』DT CRUSH!出演

劇団東京ミルクホール公演振り付け洋舞担当

自主制作DVD『ストリートダンス ヨクワカルDVDマガジン REAL STREET』企画・振付・出演・ストリートダンス普及委員会委員長・特典小冊子「ストリートダンスがよくわかる本」執筆

SONY 50時間連続再生MP3プレイヤー 50時間連続ダンスキャンペーンダンサー

フジテレビドラマ『トップキャスター』出演

映画『バックダンサーズ!』出演

氣志團『The アイシテル』PV出演

東京ガールズコレクション 2007 AUTUMN/WINTER DJ OZMAライヴバックダンサー出演

他多数



【お問合せ】
nori.school@gmail.com
※文章についてのお問い合わせなど、こちらからお送り下さい。

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